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りんごっこさんへ。



う~む、すごい。犬さんの表情、目に惚れました。
夏祭りの郷愁も絵から漂ってくる感じでした。

で、登場人物の一人が実に良いお顔。
悪人顔ながらも善人の雰囲気があふれてますね。
東映時代劇によく出て来た汐路章さんが好きですが、そっくりです。今にもあの声でしゃべり出しそう。

今後も楽しみにしております。


岩健さまお忘れなくありがとうございました


どうもご返信が遅くなりまして恐縮でございます。酷暑を
なんなく乗り切られた岩健さんと違い、こちらはもう……

と思うでしょ。ところがですね、ヒッヒッヒ~実は笑いが
止まらず七転八倒、そうなんですよぉ「タコ、タコ」じゃ

なくて「汐路さん、汐路さん」。映画「てなもんや三度笠」
でタコを両手でブン回していたあのユーモラスなおっちゃん

お好きでしたか!粋ですねぇ通ですねぇ味がありますねぇ。
なーんか自然に笑っちゃうんですよね。汐路さんというと。

ただし、りんごにとっては初お目見えがぬぁんと内田吐夢
監督入魂の五部作「宮本武蔵」のガハハ……やっぱり笑える

天守閣の亡霊役。当時、りんごにとっては、監督内田吐夢
撮影坪井誠、のコンビネーションは神様以上でしたからね。

邦画史上、最も美しい一枚絵は「忠臣蔵 天の巻 地の巻」
の「立花左近」の場における、阪東妻三郎の大石内蔵助。

我が名をかたって往来し不埒者、みずから成敗してくれる
と腕利き家臣を従えて、部屋に意気揚々と乗り込んできた

若き日の千恵蔵御大が、座して悠然とかまえる阪妻大石の
風格に呑まれてしまいメイク髪型のせいもあるんでしょう

が、どうもりんごの目には御大が「らっきょう侍」にしか
見えてこんのですわ。それも飛び切り小粒の。美味しそう

ならっきょうちゃんではあるんですが、この時の阪妻さん、
異次元の荘厳さでしたね。しかし「宮本武蔵」で姫路城の

天守閣に幽閉?!され学問修業を終えて、お天道様のもと
晴れて、天下の武者修行に旅立つ錦之助武蔵と、姫路城の

お天守を一枚絵におさめた、画面構成の素晴らしさは生涯
忘れえぬ時代劇美のひとつです。亡霊役のワンカットとは

いえ、汐路さん名画にご出演なさってらっしゃるんですね。
その後、鶴田浩二大センセイの「博打打ち」シリーズや、

「次郎長三国志」シリーズで、画面の中央でブン殴られる
だけのユーモラスな子分役でお目にかかるうち、何となく

引き際をこころえた苦労人、悟りをひらいた温和な風情を
感得し、決定的な印象としては、大好きな「緋牡丹博徒・

花札勝負」の化け安につながるわけですが、博打の神様(笑)
にしてはなーんにもやらずにご退場、大詰めの殴り込みで

いつになく女傑お竜さんにしっかりと抱きしめられ優しい
言葉に見送られて、身を持ち崩した渡世人の哀しさを全身

で表現しつつ旅立つという、人に危害を加えない、大人の
童心さえ感じる、博打詩人とでも呼びたい雰囲気でした。

1971年の「お命戴きます」でも、息を引き取る間際の
「お竜さん、あなたはキレイだ、オレがこの世で見た一番

の……」憧れの女神の腕の中で、哀切な至福を伝える声は
いまだに耳朶をはなれません。けっこう魅惑の低音ですね。

何を隠そうというか全然意味なし芳一なんですけど、この
形式に不慣れで、書き込み可能容量を把握しておりません

ので、ここでいったん改めさせていただきたいと思います。








ところで


1988年公開の、アルゼンチン・イギリス合作の映画、
マーティン・ドノヴァン監督の「アパートメントゼロ」を

覚えていらっしゃいますか?! フォークランド戦争後の
不穏な世情の中、ブェノスアイレスの小さな映画館を経営

する神経質な映画オタク青年( 2010年度アカデミー賞
主演男優賞に輝く「英国王のスピーチ」のコリンファース)

と名匠ジョージ・キューカーの遺作となった「ベストフレ
ンズ」でアイドル的人気をはくしたカナダの美青年ハート

・ボックナーが謎の間借り人として、熱いラリーの応酬を
演じる、典型的なラヴェンダームーヴィーのカルト作品。

「英国王のスピーチ」の件があっても、DVD化されないの
かと首をかしげるほどの、知るひとぞ知る魅力的な映画で

すが、まずトップシーンから50年代のハリウッドを席巻
した、アイドルスター、モンゴメリー・クリフト(1920

~1966)のモノトーンのブロマイドが輝きのドアップ
西部劇「赤い河」や「女相続人」で突き刺さるような悲痛

な美しさをたたえた、ピアッシング・アイズを際立たせる
天才的演技力を兼ね備え、「米映画史の奇跡」と呼ばれた

彼がラヴェンダーパーソンであることはあまりにも有名で
その写真が物語るとおりに、ロマンが展開されてゆく訳で

すが、なかなか捨てがたいシーンが多くてね、たとえば、
同居生活でふたりが、映画クイズみたいなことやるのね。

俳優を3人あげて、その出演映画をあてるとか、すっごく
楽しそうなの。チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー

アン・バクスターだと「十戒」!!とかね。わっいいなぁ、
好きな人と暮らしてて、モーニングからコーヒー飲んでて

こんな映画クイズやってみたーい!とか長い間憧れてたの
よ(笑)けっこうイチャイチャできそうじゃん。当たらなか

ったらお仕置きとかね。何分以内に答えられなかったら、
お掃除当番とか。だいたい問題自体でもう興奮しちゃうし。

それで、というわけでもないのですが、せっかくコメント
いただいた岩健さんに楽しんで頂こうと、「暑気ばらい・

リンゴクイズ」をやってみたいと思いまーす。ブヒヒ……。




まずは「日本映画の父」と呼ばれた、監督、脚本家にして

邦画界の大立て者、マキノ省三氏。大正14年日本に起きた

アメリカ映画ボイコット運動(カリフォルニア州が制定した

排日的な移民法への報復措置とも言われる)に果敢に反抗し

アメリカ映画の配給に意欲的な姿勢を示したことでアメリカ

映画界から「日本映画界の勇士」の称号を贈られます。

ユナイテッド・アーティストを通して、マキノ氏の尊敬する

3人のアメリカ映画の天才からもプレゼントを受けました。

D・W・グリフィスからは自身を模した「グリフィスマキノ

」という栄光の名前。

ダグラス・フェアバンクスからはカウボーイ・ハット。

ではチャールズ・チャップリンからは何を貰ったでしょう?






戦後時代劇の隆盛時に君臨し、時代劇のニューウェイブの

旗手でもあった大スター、中村錦之助(1932~1997)

のちに萬屋錦之介と改名した、このモダンな色気に歌舞伎で

鍛えた、確かな演技力を備えた天才役者が演じた数あるラブ

シーンの中でも、とりわけ人気の高かった桜町弘子との哀切

な恋。1958年、松田定次監督では、唯一本の東千代之介

主演作でも知られる、吉川英治原作の東映「隠密七生記」。

競い合う兄の東千代之介とのからみあいで、ふとしたことか

ら、最愛の錦之助に斬られてしまい、その胸の中で息絶える

桜町弘子が生命をかけて錦之助の枕元から盗み出そうとした

あるものとは何?




そしてわれらが汐路章さんが、なんとあのヴェルベット・ヴ

ォイスだけの出演をされている映画。ここで待っててと店を

後にしたヒロインが、戻ってきたらだーれもいない。慌てて

問いかけると、もう帰っちゃったよ、と厨房の奥から優しい

声が帰ってくる。男性の美声のことを「ニューヨークのため

息」と呼ぶとは笑っちゃいましたけど、「東映時代劇のため

息」(笑)汐路章さんの、タイトルに名前があるのに、顔の

出ない不思議な映画のタイトルは何?




どうもお付き合いありがとうございます。正解は数回あとの
コメント欄で発表させて頂きますので、どうぞお楽しみに。

(笑)ではまた。コメントどうもありがとうございました。





クイズ映画館「りんご座」開館しました


ううっこの懐かしい言葉の響き……「岩波ホール」ぬぁんと
1947年頃から今日に至るも、世界各国の陽の当たらない

名作映画を発掘し上映してらっしゃるミニシアターの元祖。
りんごが北海道クレージーになったきっかけ、ポーランド

の巨匠アンジェイ・ワイダの「白樺の林」をはじめ、東欧
諸国の隠れた名作を度々ご紹介頂きました。その中の一つ

にドイツ宗教改革の創始者であり、プロテスタント教会の
源流となられた聖職者、マルティン・ルターの有名な言葉

「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木
を植えるだろう」がキャッチコピーになっていた映画作品

が確かにあったと記憶しているのですが、どうもタイトル
が導き出せずに、知恵の象徴たるリンゴを植えるっちゅう

ことは、その知によって世界は救われるとかいうキリスト
教的映画だったのかしらん?!思い出せないなぁとにかく

「たとえひとりも読んでくれなくても、今日私はクイズを
出題するだろう」。りんご座の覚悟が述べたかったんだけ

ど………。えっ?!つまらんことを言ってないで、さっさと
本題に入れ!ですって、おっしゃる通りでんな。ではイザ




明日(あした)の、はた、夕の渚に

打ち寄せられしもろもろの塵芥(じんかい)を

あつめてもちかへり

いぶせき吾が賎ヶ家(しずがや)の庭にて焚けば

荒き浪風に吹きさらされし木々の

かぐはしき香りの身に沁みて

ほそぼそと立つ

あはれにも又いとほしきは

その、吾が身に沁みる

木々のうつり香にこそ__


おみごと、というよりもお人柄がにじみ出た、質朴な寂愁感

に高い日本の美意識を感じ、しみじみと酩酊する序文です。

1939年、俳優としての新国劇時代からの短歌の集大成で

ある歌集「渚」から、映画関係の短歌を数点選ばせて頂くと



うちつづく徹夜のセット出て来れば

目に沁み渡る五月晴れかな     昭和12年



よき人と住まばや秋の嵐山

芒(すすき)の中の小さき平家(いえ)に  昭和12年



この秋をめづる心の湧く間なく

起きて働きつかれてねむる     昭和13年



疲れたる心一つが残されて

今日も空しくセットを出づる    昭和13年



人みなの希いなれども吾れもまた

悔いを残さぬ生活(くらし)をしたし 昭和14年



「不器用な完璧主義者」と総評される、昭和の剣豪スター。

戦前の娯楽映画の王国「新興キネマ」から戦後の時代劇映画

観客動員数のトップを激走する「東映時代劇スター」として

最も金の稼げる役者だったこともある身ながら、素晴らしい

押し出しの反面、やや滑舌の悪さを気にかけておられたとも

伝えられてますが、師匠の前で終生膝を崩さなかった律儀で

謙虚なますらお振りが、歌集にも繊細で詩情豊かな残り香を

伝える、この豪放磊落なイメージの剣豪スターはどなた?




脇役好きのりんごには、決して外せない、けっこう二枚目で

四角四面の計算ずくでない、優れたリアリズム演技の悪役。

狂気ゆえに家臣を奈落に落とす、権力をかさにきた淫蕩非道

のバカ殿様や、屈折した市井のチンピラ役などが定番ながら

天下の巨匠松田定次監督が昭和30年に発表した5本の作品

にすべて出演している相当の手練者(てだれもの)。

「天下の御意見番」では月形龍之介の大久保彦左衛門に誠心

をつくす旗本の好人物。

「源氏九郎義経」では北大路欣也義経を、あたたかく見守る

格調高い公家を気品たかく演じる。

「右門捕物帖 紅蜥蜴」では大友柳太朗右門に尽力し、芝居

小屋で犯人捕縛の大手柄をたてる脚本家。

その他、大川橋蔵主演の「血煙り笠」と「若様侍捕物帖 お

化粧蜘蛛」と年間を通して、目を見張る連続出演の活躍。

基礎のしっかりした俳優でないとこなせない、多彩な演技で

ファンの記憶に残る、このモダンな役者はどなた?




では、「クイズ映画館りんご座」にご来賓のみなさま、残暑

厳しき折りゆえ、くれぐれもご自愛下さいませ。またね。













「りんご座」開館記念戦争映画特集


日本も今年2017年72回目の終戦記念日を迎えました。
我が国では一般的に天皇陛下の「大東亜戦争終結ノ詔書」

が玉音放送され日本の降伏が国民に公表された8月15日
をもって、終戦記念日としておりますが、りんご的には、

アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、ロシア連合諸国
の対日勝戦記念日同様、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ

における降伏文書正式調印式が行われた、1945年9月
2日が終戦記念であるとの印象が非常に強い訳でして……。

何のことはない、ええい、まだ文書にサインはしとらんぞ。
的な負け惜しみなんですけどね(笑)重光葵外相、楳津美治

郎参謀総長ら日本側代表がポツダム宣言の履行を定めた降
伏文書(休戦協定)を、連合国最高司令官マッカーサー元帥

と取り交わしちゃうと、もうこれはちょっとね……。それに
遅れること3日、意味不明のクイズ迷画座「りんご座」が

「共維和平」を旗印に戦争映画特集を開催させて頂きたい
と思います。といってもリアルタイムでの戦争経験のない

りんごゆえ、名著「日米映像文学は戦争をどう見たか」中
濱野成秋氏の「むかし、観客はみな泣いた。『雲ながるる

果てに』封切りの頃」をお借りすることをご寛容下さい。




筆者が映画「雲ながるる果てに」を初めて観たときは、まだ

中学生だった。特攻隊はゼロ戦で勇猛果敢に突撃したと聞い

てはいたが、実情はこんなに気の毒だったのかと、観ていて

何度も涙があふれた。こんなことが二度とあってよいわけは

ないと、子供心に反戦の決意を胸に刻んだ記憶がある。

当時はまだ戦争が終わって間がない頃で、田んぼの中にでき

た掘っ立て小屋みたいな映画館から出ると、とおく堺の家並

みに月が出ていた。ついこの間まで、夜になると索敵サーチ

ライトが夜空を煌々と照らしていた空に、何事もなかったか

のように、満月が出ていた。

その夜空が、焼夷弾で真っ赤に焦がされたのも、ほんの七、

八年前だった。アメリカ軍のボーイングB29爆撃機がウオ

ン、ウオンとエンジン音を唸らせて空いっぱいに低空飛行し

てくると、胴体が開いてなにやら光るものが落ちてくる。と

たちまち遠方は火の海。

「わあ、お父ちゃん、きれいやな」

というまだ五歳の筆者を小脇に抱えて、父は廊下を突っ走り

防空壕へ飛び込んだ。兄も母も跳びこんできて折り重なった

。間一髪だった。シュルシュル、ザザー、シュルシュルザー

たちまち周りは火の海だ。濱野さん、うちも入れてぇ!近所

の人も夢中で跳びこんできた。壕の中はたちまちいっぱい。

最後の人が入りきれずに、あ、あ、あつい、あつい!焼夷弾

の黒いねばねばしたタールが背中に飛び散ったのだ。背広が

めらめら燃えていた。さいわい、壕は爆弾の直撃を受けず、

火の手もひどくなく蒸し焼きにならずにすんだ。だが背中に

火傷を負った人は一週間、焼け残った土蔵の中で生死の境を

さまよった。命はとりとめたが、背中いっぱいの火傷で戦後

も意欲をなくし、ぶらぶらしていた。







続きです


都市や郊外で暮らす日本人のほとんどが、戦時中はこんな経

験をした。終戦の虚脱感。精神的外傷はそうすぐには癒えず

国中が荒れに荒れたままだった。病院や学校の建物はたいて

い爆弾で四階の屋上から地下まで、コンクリの床に爆弾の大

穴をいっぱい空けられたまま、夜目にも気味悪く廃墟のまま

だったし、電車は動かず汽車にひっぱられて、ごろごろ。そ

れに食料買い出しの人々が屋根まで乗っている。かっぱらい

泥棒、無銭乗車、無銭飲食、のみ、しらみ、餓え、疫病、強

盗、殺人、大水、復員軍人の自殺等々が毎日だった。だれも

が戦争の痛手から立ち上がれず、子らも学校で弁当の薩摩芋

の盗み合いだった。父親が戦死。母親は病にたおれ、極貧の

家では、畑の芋を盗みに行って病気の母親に食べさせていた

小学生もいた。

この「雲ながるる果てに」は、まだそんな時代に作られたの

だった。亡くなった特攻隊の若き兵士の心情を少しでも後世

に残そうと、兵役に行った人たちも大勢出演して、死んで逝

った戦友のため、心をこめて作ったのがこの作品なのである

。10円出せば観られた。主人公を演じた鶴田浩二はもと、

特攻隊。そのことはみんな知っていて、かれが切なく母親を

呼ぶラストシーンで観客はみな泣きに泣いた。このフィルム

は擦り切れるまで全国をまわり、青空映画館も満員で、どこ

でやっても、代用のいもさえ食えなくても、みな集まった。

兵隊はいやだ、平和がいい、空きっ腹でいても、観ていたも

のはだれも、そう思っただろう、目を泣き腫らしていた。



「雲ながるる果てに」は家城巳代治監督による「特攻映画」
の原点として、1953年、重宗プロと新世紀映画によって

製作され松竹と北星映画が配給した大ヒット戦争映画です。
いわゆる、学徒出陣で散華された学生たちの手記をもとに

映画化され、この作品とともにヒットした、もうひとつの
映画も大変有名ですが、ビルマのインパール作戦の大敗退

の中で、フランス哲学を語りながら戦火に消えてゆく知識
人の兵士の物語を描いた、その映画の題名は何でしょう?

いささか不敬ではございますが、ご寛容下さいますよう。
それにしても、この当時の作品のタイトルはおしゃれで

文学的で、一度聞いたら忘れられないものが多いですね。
お付き合いありがとうございました。ではまた明日まで。




りんご座開館記念特別上映


世の中には「りんご座」でしか観られない映画というもの
があります(笑)。我が国の守護神であらせられる英霊様に

お会いすることが出来ましてモノクロスタンダードサイズ
の静謐な画面で、やや含羞の面差しで語って下さるお言葉

「人生は戦場です。辛いのが人間の運命だ。生きては帰れ
ぬ覚悟も、緊張も躍動感も、青春のひとコマとして、今は

懐かしさしかありません」。りんごの目?から滂沱たる涙
があふれ、敬愛の念に全身が痙攣して、鑑賞が困難になる

にもかかわらず毎晩とりついて必ず観てしまう、この映画。




安達卓也様 
大正十一年五月九日  兵庫県出身
東京帝国大学法学部政治学科 卒業
昭和二十年四月二十八日 南西諸島
神風特別攻撃隊第一正気隊特攻戦死


昭和十八年十月十二日日記

我々は「死」に到った時、大きな苦悩を味わうにちがいない

それは「死」が恐ろしいからではなく、いかに死ぬかが我々

の心に常に迫り、あらゆる価値判断を迫られるからだ。

ゆえにその苦悩は、我々の必然である。ただ天皇陛下万歳を

唱えて一種の悲壮感に酔って死んだ人は、美しいとはいえ、

我々のとり得ない態度だ。我々は常に「死」そのものを見つ

めつつ、しかも常にいかに死ぬるかの苦痛を担いつつ死んで

行くのだ。「なんだ、これが死か」という感情を、死の瞬間

にも持つ冷静さだ。

しかし、この苦悩があればこそ、我々には我々の死に方がで

きる。それは断じて敵に対する逡巡ではなく、最も勇敢なる

「死」であらねばならない。我々はむしろ、この苦痛を誇り

とするものである。この苦悩を越えて「死」そのものを見つ

める時、我々の真の世界が開ける。

強烈な現実の嵐の前に「死」に直面し、その中に新しく生き

てくる我々の学の精神こそ、我々の内にひそめる真の学的精

神であらねばならない。我々は学を戦に代えた。それは学の

飽くなき追求であり、新しき生命の獲得なのである。一人た

りとも学徒が生を得て帰還したら、その内から真の東西の理

想が生まれ、雄大な生成発展の構想が構成され、真に東亜の

人々を新しき道義の世界に導き得るであろう。

勿論、我々は消耗品に過ぎない。波のごとく寄せ来る敵の物

質の前に、単なる防波堤の一塊の石となるのだ。しかしそれ

は、大きな世界を内に築くための重要なる礎石だ。

我々は喜んで死のう。新しい世界を導くために第一に死に赴

くものは、インテリゲンツィアの誇りであらねばならない。


昭和十九年一月九日(大竹海兵団にて 日記)


戦はますます苛烈である。死闘は毎日のごとく繰返される。

国民の生活はますます深刻になり、悲惨になる。果たして戦

は是か? 真の平和は、かくも悲惨なる殺戮の彼方に求めら

るべきか?

歴史の現実を見つめるとき、いかなる戦争もそれぞれイデオ

ロギーの争闘であり、世界観の戦であった。しかしその結果

としてもたらされたものは! 理想主義的世界は単なる夢幻

と化して、後には戦前の現実に戦の悲惨を加えたものに過ぎ

なかった。あのフランス革命の痛烈なる理想も自由への憧憬

も、ナポレオンの独裁にすべてを失ったではないか。


一月十五日


父に逢った。母に逢った。手を握り、眼を見つめ、三人の心

は一つの世界に溶け込んだ。数十人の面会人のただ中にあっ

て、三人の心の世界のみが私の心に映った。遙かな旅の疲れ

の見える髪と眼のくぼみを、私は伏し拝みたい気持ちで見つ

めた。私のために苦労をかけた老いが、父母の額の皺にあり

ありと見られるような気がした。何も思うことがいえない。

ただ表面をすべっているに過ぎないような皮相的な言葉が、

二言、三言、口を出ただけであり、あまつさえ思うこととは

全然反対の言葉すら口に出ようとした。ただ時間の歩みのみ

が気になり、見つめること、眼でつたえ合うこと……眼は口に

出し得ないことをいってくれた。母は私の手を取って、凍傷

をさすって下さった。私は入団以来初めて、この世界に安ら

かに憩い、生まれたままの心になってそのあたたかさを懐か

しんだ。

私はこの美しい父母の心、暖かい愛あるがゆえに、君のため

に殉ずることができる。死すとも、この心の世界に眠ること

ができるからだ。わずかに口にした母の心づくしは、私の生

涯で最高の美味だった。涙とともにのみ込んだ心のこもった

寿司の一片は、母の愛を口うつしに伝えてくれた。

「母上、私のために作って下さったこの愛の結晶を、たとえ

充分いただかなくとも、それ以上の心の糧を得ることができ

ました。父上の沈黙の言葉は、私の心にしっかりと刻みつけ

られています。これで私は父母とともに戦うことができます

。死すとも、心の安住する世界を持つことが出来ます」

私は、心からそう叫び続けた。戦の場、それはこの美しい愛

の感情の試練の場だ。死はこの美しい愛の世界への復帰を意

味するがゆえに私は死を恐れる必要はない。ただ義務の完遂

へ邁進するのみだ。

一六〇〇、面会時間は切れた。再び団門をくぐって出て行か

れる父母の姿に、私は凝然として挙手の礼を送った。父母の

姿は夕陽を世にして、その影が地上にひっそりと長く落ちて

いた。その瞬間に静けさをしみじみと感じ、振り返りつつ、

立ち去って行く父母の瞳にじっと見入った。美しい父母の御

心に泣きつつ……。




続きます。



続きです


昭和十九年八月二十六日(大井航空隊にて 日記)

搭乗員は一日一日が一つの完成であらねばならぬ。それはい

つ生の終末が来ようとも、それが一つの完成として残らねば

ならぬ。と、同時に、一日一日の連続はまた一つの完成への

精進の道程でなければならぬ。必死の、血みどろの努力の集

積の中にいかなる終末に終わろうとも、それが空虚を意味し

ないだけの心の準備と努力の成果でなければならぬ。それは

搭乗員としての絶対的な運命であるとともに、唯一の誇りで

もあるのだ。そこに凡太郎は、搭乗員の生活の、宗教へのつ

ながりを見出すのである。

九月十四日

凡太郎は飛行機を愛する。それは常に生と死の間を翔けりゆ

く鳥である故に。空中に在って発動機の音に耳を澄ますとき

それがちょっとした異常な音を立てても、それはすでに死へ

の道が開かれている。静かに死を見つめる感情は飛行機のみ

が与えてくれるのだ。しかも機上にあって悠然として任務を

遂行するこの気持ちがこよなく貴いものに思われてならない

。この気持ちの中から、何か生まれなくてはうそだ!

学問により、書物によって解決せんとあがいたものが容易に

眼前にもたらされたとも思われる。しかしその安易さはまた

また飛び越え難い障壁でもあるのだ。その解決は死の瞬間ま

で不可能かも知れない。ただ死と取り組みあっていることを

肝に銘じ、必死に、真剣勝負の気迫を持って迫るとき、何ら

かの広い大空のような世界が見られるかも知れないとも思わ

れる。

十月十一日

凡太郎はジイドに泣く心を忘れた。だが彼はソクラテスを愛

する。彼は恋愛の美しさに泣けない。だが愛の崇高さに身を

捧げる。

十二月十六日

自らの生に虚無を見て、自らの生命を絶った天才的文人があ

った。自らの道に生の否定を断定し、巌頭に絶叫して死を選

んだ若人があった。自らの信ずる哲理ゆえに、国家への背反

の名を科せられて、人生を葬り去った幾多の魂があった。

今、祖国の歩みを唯一の真理として、戦のただ中にその生命

をたたんとする若人がある。一体彼等の死は、いかなる意味

を有するのであろうか。

昭和二十年二月二十四日(大井航空隊にて 日記)

英霊を送る。………戦闘機のパイロットの遺骨を。白布に包ま

れた清い美しい遺骨に、搭乗員の帰結を見つめる。それは一

つの人生の結論であり、必死の生涯の結実なのだ。空飛ぶ男

の瞬間的な生から死への飛躍は、その結論を夢のように美し

い感情の幻に包んで、直立不動の戦友の列に投げつけつつ、

魂の世界に旅立って行く。はかない、やるせない………そんな

繊細な言葉を人生の翳から払拭して、一挙に、荒々しい結論

を、奮然と投げつけて、彼、搭乗員は人生を終えた。

私は、彼の魂に頭を垂れ、私の貧しい結論を、いつかは来る

べき結論を、戦いの轟きの彼方に見つめる。

空征かば雲染むかばね 潔く散らなむ

今日も冬の空は、くっきりと澄んでいる。




続きます。

続きです

三月十五日


祖国を救うものは偉大な中枢たるべき大人物のほかにはない

。特攻隊は、神国に出現せる救国の神業であるには相違ない

が、それは物量に対する防塵たるに過ぎない。国の中枢に強

力な政治があってこそ、はじめて国の旺盛な精力となり得る

のだ。

「あとに続くを信ず」とは、単に死を決して戦う者の続くこ

とを信ずるのではなくして、特攻隊の犠牲において、祖国の

よりよき前進を希求するものにほかならない。たとえ明哲な

手腕の所有者ならずとも、いかなる悲境にも泰然として揺が

ず、しかも身を鴻毛の軽きに比して、潔癖な道義の上にのみ

生き得る大人物の出現こそ、真に国を救うものだ。いかに特

攻隊が続々と出現しても、中核をなす政府が空虚な存在とな

っては、亡国の運命は、晩かれ早かれ到来するであろう。


三月二十六日


特攻隊身上調書記入。

「後顧無し」と大書せり。

凡太郎の生の奥に、静かに、しかし力強く、永遠を思わせる

ごとく燃えていた生の焰は、今やたきつききらんとする。静

かな思索に白光となって輝き、幾多の偉大なる哲人の生の燃

焼によって生れ出でた古典に沈潜して、ほのぼのとした人生

の灯をともしつづけた凡太郎の生の焰は、一挙に爆発してそ

の最後を飾らんとする紅の巨火を吹き上げて、一瞬の中に生

を終えんとする。彼の人生の焰は、最後の燃焼によって神国

の世界創造の礎たらんとするのだ。


四月二日


凡太郎は、学生生活において知性に目覚めて以来、歴史につ

いて、死について、苦悶と思考を続けてきた。それは未解決

のまま残されている。

だが、今は、それが別の意味で解決されている。もう苦悶も

悩みも存在する余地がない。それは、意味なき意味であり、

未解決の解決である。


四月六日


ああ、特攻隊は出撃する。一機、二機、手を振りつつ出で征

く戦友!

搭乗員、整備員、緊張しきった顔貌で、帽を振りつつ後を見

送る。送る者、送られる者。再び逢うことなき別離。上空に

編隊を組み、バンクしつつ暁の空に出でて征く。目指す琉球

の決戦場へ。

この日、積雲徐々に去り、一直線に碧空が明るい色彩にいろ

どられ、陽光がほの暗い飛行場を荘厳に染めていた。歴史が

造られる神聖な一瞬である。凡太郎は、衷心より還らざる機

の壮途を祈る。彼もまた旬日ならずしてこの壮挙に加わらん


四月七日


特攻隊敵艦に突入。号令台前には、半旗が春風に静かになび

いている。

四月十一日


特攻隊編制。出撃の栄を担う。


四月十二日


父上、母上、卓也は明四月十三日特攻隊の一員たる栄を禀け

出撃いたします。

元気旺盛、闘志に燃えております。

御厚情を感謝し、御幸福を祈ります。

お身体を大切に、卓也は常にお側にあります。

桜咲く日に………。

妹に

立派な母になって下さい。

小生に代わって孝養を頼みます。


四月十三日


四月十三日、故郷の空、香住の空を通過した編隊は、小生の

配乗するものです。空からお別れすることができることは、

何よりの幸福です。




戦局の劣勢を一挙に挽回しようという「神風特別攻撃隊」
による体当たり作戦は米軍が比島のレイテ島に上陸した

直後である1944年10月21日から開始されました。
安達様の「海軍飛行予備学生第十四期生」が参加された

のは1945年3月、南西諸島沖縄方面の最後の防衛作戦
が開始されてからですが、彼等は、飛行時間わずか百時間

前後という未熟な訓練を受けただけで、九州南端の鹿屋、
国分、串良基地などから、かろうじて間に合った特攻隊の

いわば最終部隊として出撃、総勢三百九十五人が学業半ば
にして散華なさいました。「青春はかけがえがない。もし

歴史の評価が変わることがあったとしても」という思いか
ら、上梓された最後の学生特攻隊の、清心の気魄に満ちて

胸を打つ遺稿集、今後も続けさせて頂きたいと思います。






脱簡がございました


前項の安達卓也様の日記の一部が抜けておりました。訓練
・出撃など、何項目かに分かれて編集されていた為、つい

見落としたものです。失礼いたしました。




二月四日(土浦航空隊にて 日記)


父上、母上、謹んで卓也は、飛行専修予備学生を拝命しまし

たことを報告いたします。私の生き方、私の生涯の、最後の

在り方は、ここに完全に断断乎として決定いたしました。

お召しを受けてから、水漬く屍となることは、私の最も厳粛

なる決意であります。ここに飛行機乗りになることが決定致

しました以上、死に対する覚悟を新たにし、改めて父上母上

にお別れを致さねばなりません。今日まで病弱にして我がま

まな私を、今日の身体に養育していただいた父上、母上に、

何ら報いることなく、孝養を尽くすことなくしてお別れしま

すことは、何より私の心を痛めます。立派な父上、母上のお

心が、私を御国のために捧げたという覚悟に徹していられる

ことはいうまでもありませんが、その中にひそんでいる痛烈

に悲痛な感情を、私は涙なしには思うことはできません。

私は父上、母上の愛によって生を保ち、愛によって初めて今

日あるを得ました。それに何ら報いることなくお別れしよう

としています。ただ祖国を護るために、それに必然と絶対を

見出すからであります。私の死が、真にその処を得て、父上

母上の名と愛を汚さないものであることが唯一の願いであり

ます。私の生涯は、真に幸福でした。愛に包まれて生涯を過

ごし、この御戦のただ中に水漬く屍、雲染む屍となる光栄は

言葉に言いあらわせないものがあります。ただ父上、母上に

対して、何ら報いることがなかったことだけを心からお詫び

するものです。なにとぞ楽しく和やかな余生を送られ、美し

い日本の家が、永遠に清くあることを祈っております。私は

不肖ながら、祖先の伝統と祖先の意志を背負って、戦の中に

自らの生命をたたんとするものであります。父上、母上、卓

也は喜び勇んで新しい生活に全力を尽くします。心から御厚

情を感謝しつつ……..。




「りんご座」開館記念特別上映



杉本芳樹様
大正十一年九月二十四日生
京都帝国大学経済学部卒業
昭和二十年六月十五日沖縄
小祿地区で戦死徳島県出身


昭和十八年十月一日


大学教育停止が公表された時から、不思議に心の動揺が起こ

らない。平静そのものである。そんなことは、もう遠の昔か

ら定っていたことであって、なんら驚くに当たらない、とい

った気持ちである。そして、この教育停止に対して、反感、

不平をもつどころか、かえって、はっきりとした一条の道が

我々の前に開けた感激と、その道への出立ちに対する、希望

にさえ駆られる。この道が戦場に通じ、その果てでは米英の

飛行機が雲霞をなし、砲弾が唸り、千の銃口がこちらに向い

ている。我々は、その中に突入するのだ。まことそれは二十

年の生涯をこの一点に傾倒しての、己が全存在の燃焼である

。何と壮烈だろう。何と花々しいことだろう。

戦場にあっては、生死は未知数であり、生はつねに死に曝さ

れてあるだろう。あるいは死の深淵が、口を開いて行く手を

遮っているかもしれない。しかし、その時の覚悟は、すでに

ついていると断言できる。今、自分は、それがいかにして、

自己の中に、かくも明白に結成されたか言えない。理性以前

に、きわめて当然のこととして、すでに肯定されつくしてい

るのである。死して悔いなし。まことに男子の本懐であると

いう信念は、牢固として動かすすべもない。しかしながら、

この信念は理智の媒介によらざる以上、真の自覚的信念とは

いい難いであろう。

田辺元教授が「死生」で言われた次の言は、そうした心境を

指すのであろう。

「今日我々日本国民は、いまさら死生の問題を考える必要が

ない。諸君も我々も、いつでもお国のために一身を捧げる覚

悟ができているはずである。しかし、他面、実は私も皆さん

と同様に、やはり常に死生の問題を考えており、一方では堅

い覚悟ができているにもかかわらず、なお生の意味、死の意

味を考えざるを得ない。ことに今日、我々はなお死生の問題

を考える余裕があるが、明日はもう考えることができないか

もしれない。そういう前夜においてもなお、我々が死生を考

えることは否定できない事実である」

田辺教授が月曜講義の壇上で、薄暗い電灯の下で、低い声に

鋭い力強さをこめて、この言葉を発せられたとき、そぞろ死

の前夜であるかの如く思われて、ぶるぶるとふるえたことを

記憶している。そして、その時「死の覚悟ができているはず

である」といわれて、自分は果たしてそうであろうかと自ら

の不誠意を恥ずかしく思ったりもした。それから、いくばく

も経ない。しかし、今日、戦場への道が開けた途端、自分に

とっては一切が確定した。



続きます。

続きです



十月三日


自分が戦場に赴いた後で、最も心ひかるるものは二つある。

一つは、老し父、老し母であり、二つには幼き弟妹である。

前者について言えば、父母が果たして「子は国の子なり」と

いう確信にまで高めてくれられるだろうかということである

。もとより日本国民、それだけの覚悟はされてあるだろう。

だが、親にとって、子の喪失ぐらい直接的な、絶対的な痛手

はないであろう。父母は、未来の大きな夢を、自分の上にか

けられていたことであろう。父母の境遇にあっては、自分が

大学生であるということは、なおさらそれに拍車がかけられ

てあるだろう。それが、むざむざと現実の歯車にふみにじら

れ、一切が一場の夢と化すかもしれない。国家のために死す

ことは最高絶対であり、最も栄誉に輝くことではありながら

しかも、子を失える親にあっては天才達人にあらざる限り、

それは一つのトラジェディーである。ほとんど運命的な悲劇

である。ことに女性としての母にとっては、それはどんなに

大きいことか。なぜなら、男性は子に生きるというよりは、

なおその他に高い理想に向かうのに反して、女性にとっては

彼女はただ母として子に生きるばかりであるからである。

自分も、しみじみ母の限りない愛を有難く思っている。休み

に帰省したときのあの母の愛。自分にとっては、何物にも代

え難く貴い。あらゆる文化、あらゆる事業、それと並んで、

母の愛は独自の絶対価値をもつ。それだけにまた、母は子の

喪失に、深く傷つけられることでもあろう。

ただ自分は、父母に対して、「立派に国のために戦いました

。喜んで下さい」こう言って、父母の余生の幸福たらんこと

を祈るばかりである。

後者については、前者とほとんど対照的な心持ちになる。

それは先立てるものの、後れて来るものに対するあの態度で

ある。彼等は、語るにはあまりにも幼い。むしろ自分は彼等

に対して、死のことや人生の苦難の色々を語ることを危む。

なぜなら、子供時代というものは、一つの時代として、それ

自体、自己完結性をもつものであり、絶対価値を保有してい

るからである。それは大人の時代と区別され、大人の時代と

代替しうべくもなく、従ってまた、大人の要求でみだりに、

撹乱されてはならないからである。彼等に対しては、何も知

らせない方がよいと思われるのである。彼等もまた、成長し

て大人の時代にふみこんだとき、多くの苦悩や苦患につきま

とわれるであろう。その時、誰しもひそかな慰みを得ている

ところの、無心にたのしい子供時代が無残にぶちこわされて

あったなら彼等はいずこに魂の安らぎを求めるであろうか。

自分は、宏にしても美智子にしても、決して秀才であるとは

思わないが、やれば結構できるだけの能力を保有しているこ

とを、たのもしく思っている。そして多くの天才といい秀才

といい、それが早熟の一時的な開花に終わったり、とかく、

没落の危険性の伴い易いのに対して、真に人生において最大

の功績をあげるのは、こうした自らの努力の程度に応じて、

どれだけでも向上する可能性をもつ者であることを信じてい

る。自分が彼等にのぞむことは、別段これと言ってはないが

「共に立派な人間になってくれ」これのみである。言葉は簡

単であり表現は陳腐と月並みを出ぬであろう。しかし、ペン

とる手に剣をもちかえ、祖国の難に赴くお前たちの一人の兄

が、生死の巌頭に立って最後にのこした言葉である。それは

一つには限りない兄弟の愛情が囁いたものであり、二つには

出でて生還を期すべからざる人の、次の世代に対して希った

唯一のお願いである。自分は宏が軍人になろうと、また自分

のように高校を経て大学に至ろうと、そのいずれをも強制す

ることはできない。一に彼の個性と能力に帰すことだからで

ある。しかしそのいずれにおいても常に真剣に人生を生き抜

いて、自分の達し得なかったところをなお成就し、そして、

さらに、それ以上に達せられることを希ってやまない。

兄の期待にそむくな。宏、お前がもし自分のような経路をと

るとしたならば白線帽をかむったなら、吾が墓前に来られよ

。角帽をかむったなら、また来て、お前が伸びゆく姿を見せ

てくれ。

美智子については、それほどいうべきこともない。ただ宏と

相扶け、父母の孝養に遺憾なからんことを希うのみである。

ただ兄は、お前の娘時代の姿を一度見たかっただけである。

書いていくうちに、遺言と変わらないものになってしまった

。もとよりこれが、真の遺言となるか否かは疑問である。

しかし、一旦死を覚悟したものにとっては、そのことを予定

せねばならない。その意味において、一言したいのは兄上に

対してである。自分は兄上に対して、絶大の謝意を表しなけ

ればならぬ。兄上は自分にとって、唯一の指導者でありよく

自分の行路を導いてくれた。高校に入学し、今日大学にある

のも、一に兄上の慧眼によるものである。

兄上は自分の眼を開いて、真の人生へむけてくれた何よりも

貴い原動力である。そうして、そうした精神的恩恵に限らず

高校時代より今日まで、月々相当額を規則正しく送金された

兄上の心情に、自分は衷心より感謝せねばならぬ。何ら報い

ることなく、あるいは、死につくことを、いたむ。




 

戦ひ抜け!一億試練のとき


宣戦の大詔(みことのり)渙発さる!討て米英を………

その朝の何たる凛烈さぞ!山には雪、大地には霜おいて国民

の試練をもとめる朝、皇軍はつひに起った(たった)、進め、

大日本、午前六時大本営発表………同十一時、大詔渙発(中略)

やがてさしのぼる旭日、師走八日、歴史に残る朝は明けて、

帝都はまさに日本晴れ、合外が飛ぶ、鈴がなる!ラジオが時

ならぬ楽音を放送する、午前七時臨時ニュースだ。朝餉(あさ

げ)につかうとする家族、いやすでに職域へと家を出た産業

戦士の背を追ひ、学徒の背を追って街頭のラジオは軍歌を放

送する、瞼を閉じれば西太平洋の海に空に征きに征く「つは

もの」の姿が浮かぶではないか、隠忍自重の兜の緒も切れて

われらは皇国百千万年の運命を切り開くために如何なる長期

戦をも戦ひ抜かねばならぬのだ。勝て、勝て、勝て!思わず

叫ぶ胸のうち、赤子(せきし)の群はやがて宮城前へ、明治神

宮へ、靖国神社へ、決死の祈願である、ふとみれば西空にか

かる残ん(のこん)の月、闇に姿を誇った「はつか月」が奢れ

るものの姿を暗示して蒼白く薄れ行く。(以下略)



昭和十六年十二月八日の読売新聞夕刊の記事ですが大東亜
戦争勃発の報に、新聞からして、この興奮、この感激状態

読むだけで高揚させられてしまいます。同日の朝日新聞夕
刊の社説でも「いまや皇国の隆替を決するの秋(とき)一億

国民が一切を国家の難に捧ぐべき日は来たのである。一身
一命を捧げて決死報国の大義に殉ぜよ」と、ここに揺るぐ

ところなき東亜恒久の礎石を打ち立てること、を力説して
おります。ところで、詩人や歌人は大東亜戦争勃発の報に

いかなる感慨を詩歌に託したのでしょうか。「千恵子抄」
で知られる詩人高村光太郎氏の詩集「大いなる日に」より


鮮明な冬
この世は一新せられた。
黒船以来の総決算の時が来た。
民族の育ちがそれを可能にした。
長い間こづきまわされながら
なめられながら、しぼられながら
仮装舞踏会まで敢えてしながら
彼等に学び得るかぎりを学び
彼等の力を隅から隅まで測量し
彼等のえげつなさを満喫したのだ。
今こそ古しへにかえり
源にさかのぼり
一濱千里の奔流となり得る日が来た。
われら民族の此世に在るいわれが
はじめて人の目に形となるのだ。
鵯(ひよどり)が啼いている、冬である
山茶花が散っている、冬である
だが昨日は遠い昔であり
天然までが我にかえった鮮明な冬である


透徹した感傷と清冽な哀感を湛えて、今も多くのファンを
持つ詩人、三好達治氏は陸軍幼年学校から士官学校入学。

皇道派青年将校の一部とも関わりながらも、戦後はその
思想を一転、再軍備にも強硬に反対する立場となります。


第一戦勝祝日
われ幼きを携えて
この日風疾(はやき)巷に出づれば
砂塵まい
山山に残雪白く
日うららかに
白雲とぶ
わが行く方には
鵯どり街路の上に相群れて
斜めに高く飛びゆくを見る
錯落参差(しんし)
羽翼(うよく)白く輝き
彼らみな沈黙して
寒風にむかいて飛翔せり
凛冽たる気流のうち彼ら黙して啼かず
しきりに高低し
鼓翼しひるがえれり(以下略)


あらた世のはじまる時ぞ十二月八日といえる日をな忘れそ

勝たむ勝たむかならず勝たむすめらぎの御稜威(みいつ)の
下(もとに)われら戦う

わが胸はいまこそ躍れ真珠湾爆撃の音もそこに聴くがに

吉井勇氏の短歌です。


大東亜戦争勃発をうたったもので特にりんごのお気に入り
は、童話作家新美南吉氏(1913~1943)の作品。

「ごんぎつね」で知られる、この若き女学校の教師は、
安城ヶ原の開拓を夢みた先覚者の一人でもありました。


あの日から
風景が美しくなった。
うこぎの枯れ木に
ひぐれの茜雲(あかねぐも)がとまっている………
そんなつまらない風景でさえ
馬鹿に美しく見えた。


一部ですが、皆さん自然描写が素晴らしく現代の日本人が
喪失した何ものかに心うたれる思いです。さて大東亜戦争

勃発関連の映画で、邦画史を代表する一本に「陸軍中野
学校開戦前夜」が挙げられると感じますが、故市川雷蔵

氏の代表的シリーズの最終編で、1968年公開、鬼才
増村保造監督の緊迫した演出で、小山明子さんが印象的

な作品でしたが、夫君の故大島渚監督とのエピソードは
かなりワクワクさせられます。大島監督が映画「儀式」

で臨んだ、カンヌ国際映画祭で、ギリシャの高名な映画
監督、テオ・アンゲロプロス(代表作「旅芸人の記録が

「儀式」にインスパイアされたものであること)への
お世辞?で、小山さんがテオの「1936年」という

映画について質問したら、なんと二時間、テーマから
作り方、封切りの結果まで、よどみなく独演したのに

呆れて、彼のことを「まぎれもないキチガイ」と繰り
返す大島監督には笑わせられましたが、そのカンヌ映画祭

でジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻に食事に招待された
際、風光明媚なレストランも、最高級のメニューも、スー

ザン・ソンダク女史も交えての会話も、何一つ記憶になく、
終始、ただうっとりと、レノンの顔を見つめていただけだ

ったというあたり大島監督も相当なモンだと思いますねぇ。
それでは、その大島監督が撮影中に、小山さんに国際電話

でこのロケ地に来いと言ったら、「なによ、私が日本で
稼いでいなかったら、わが家の家計はどうなんのよ」と

怒られたという、南洋の島でロケした大島監督の有名な
戦争映画のタイトルは何だったでしょう?! ではまた。




惜しみても余りある英才銀河に燃ゆ



沢田泰男様
大正十一年六月二十九日大阪府生
東京帝国大学法学部法律学科卒業
昭和二十年五月横須賀上空で戦死


昭和十九年十二月十五日(北浦航空隊から 書簡)


御覧、この頃の夜空の星の美しいこと。ひとつひとつが何か

を囁いているようじゃないか。自分の気持ちが悲しい時は、

星どもも同じ悲しみを悲しんでいるようだし、嬉しい時には

同じ喜びを喜び合っているようだね。星どもは恋する人々を

見ることばかりを仕事としているので、あんなに美しいんだ

ろう。

お別れして一年、もうすぐ一周年が廻って来るね。「去る者

日々に疎し」という諺があるが、成る程それはつい最近まで

は真理だった。離阪当初の如く、夜な夜な貴女の夢ばかり見

楽しい甘い空想に耽るようなことは、日とともに次第に少な

くなっていった。しかしつい最近のある日曜日、別離以来の

君からの手紙を、もう一度全部読み返してみた。いただいた

時は何の気なしに読み過ごしたであろう月並みな文章の奥深

く、何かしら眼頭が熱くなるようなものを感じた。今初めて

私の赤裸々な良心をもって、君の偽りない純情の輝きを感受

したようだ。静かに眼をつむって過去を振り返る時、私は貴

女と交際する上に、その間にある溝を設けていた。そして、

その溝を跳び越えようとする感情と、この溝を死守せしめよ

うとする理性や四囲の束縛とが、絶えず心の中で闘争してい

た。しかしあれやかや考え、結局それは闘争を続けたまま、

何らの解決も与えられずにお別れしたのです。これがまた最

後の晩のような行為、言語となって現われたのです。

今考えてみると、私に決断力がなかったのだ。も一歩深く、

君の愛情を理解し得る感受性に乏しかったのだ。否、感受し

たのだけれども、あるものの牽制を恐れて故意に神経を麻痺

せしめていたのだ。つまり自己を偽っていたのだ。私は今ほ

ど強く君に愛を感ずることはない。これは今まで私の感情を

束縛しつづけていたすべての感情を気持ちの上で除去し得て

虚偽のない赤裸々な気持ちになれと言ったことがあるが、そ

う言った自己が今にしてやっと赤裸々な気持ちになり得てい

るのだ。誠に恥ずかしい次第です。再び違った意味と気持ち

で君の夢を見つづけるようになった。この気持ちこそ生涯変

わるまい。これは私の本心だ。もともと私は、ある女の人が

すぐ好きになり、それがすぐ嫌いになれば、またすぐ代わり

の女を見つけるというようなことのできる男ではない。君に

もそういう所がある。こうした二人が、お互いにかくまでし

っかり結び合わされたことは、永久に二人の結合を意味する

ものではなかろうか。私も先短い命、君は許してくれるもの

として、出来うるならば、この気持ちを実現してゆきたいと

の思い切なり。

かくて私は、最後の晩を後悔している。どうかあの時までの

私の言葉、私の行為は全部、私の良心を束縛し麻痺せしめて

いた心の鬼のなせる業と思って、ゆるして戴きたい。私は今

一度、しっかり貴女を抱擁したい気持ちで一杯だ。

しかしそんなことは、私一個の身勝手な我が儘だけではゆか

ない。どうしても実現不可能なる正当な理由さえなき限り、

私は断乎として君を抱擁する。君に接吻する。




続きます。

星空の反戦詩


昭和二十年一月七日


拝啓、お手紙拝見、相変わらず元気の由何よりです。決戦下

物質的不自由は如何に烈しくとも、心は楽しい新年を迎えら

れたことと思う。私も去年の正月とは、気分的に格段相違し

た愉快な正月を迎えました。

自分一個の考えでこうしたい、こうすることが当然だ、正し

いのだと思うことも、そのとおり実行できることが何と少な

いことか。何事も思うに任せぬがこの世の事だと、つくづく

感じさせられた。前の手紙に書いたことは私の偽らぬ真情で

あり、希望である。また永久に変わらぬ美しい恋だと思って

いるが、あの手紙に書いたようなことがもし実現し得るもの

だとすれば、本当にこの世の中は夢の国、極楽の国でしょう

。しかし、色々な事情は、それを妨げます。その事情は私も

話したことがあり、大体お分かりのことと思います。結婚し

たいのは二人の切なる真情であり、またそうすることが神の

国では正しいことなのでしょうが、そう出来ぬのがこの世の

中です。そうしないのが却って正しいというふうになるのが

この世の中です。

私は決して君の肉を要求しているのではない。女の体は我々

には不必要だし私個人としてもそこまでなり下ってはいない

。私は君の美しい魂の響き、心の音を欲したのです。魂は肉

体を離れ得ぬゆえに、魂を欲した私は君の肉体をも欲するも

のと考えて下さいますな。私は、君の体を欲することが、私

以外のすべてのものによい結果をもたらさぬことを知るがゆ

えに、君の魂の声をきくことのみに満足しましょう。君とて

も、私との肉体的結合を待つ時は、永久に実現不可能の悲惨

な運命にあうでしょう。私は君を愛するがゆえに、また四囲

の人々をも愛するがゆえに、君に私との肉的結合はさらりと

諦めて、他の人を選べと言いたい。これは辛いことだが、君

を愛するがゆえにあえて言うのです。結局私と君との交際は

予感通り美しい友情、恋愛として生涯つづけましょう。私の

気持ちは前の手紙の如くにして、未来永劫に変わらぬことを

附言して、君の幸福を祈りつつ擱筆す。私は近く征く。


二月十五日


敵機動大部隊、日本近海に出現し、大空襲をうける算大なる

ため再度重要物件および衣類の隊外分散をおこなう。この為

楽しみな外出も中止されて、一日中きりきり舞いだ。日本近

海に敵機動部隊をみる。これほどまでに戦局は緊迫している

。最近は非常時という言葉さえ用いられなくなった。あれほ

どまでに人口に膾炙した言葉なれど、その昔の非常時という

観念は、現在の戦局とはあまりにも雲泥の差を有するがため

である。こんなに戦局が緊迫しているというのに我々が徒食

しているとは一体何事だろう。


 

続きます。

忘れまじ君の青春譜


二月十五日


搭乗員はありあまるほどあれど、乗るべき飛行機はなし。

戦局を顧みても、物質的威力は決して馬鹿にはできぬ。結局

終局の勝利を獲得し得るものは、精神よりも圧倒的な物量で

はなかろうか。

彼女が結婚するらしい。ちょっと淋しい気がする。あれほど

錯綜した事件も、彼女の結婚という一事によって、すべては

解決されざるを得なかった。またそれが、今の場合最良の解

決法であろう。恐らく彼女は何も言わずに嫁ぐだろうし、俺

だってお祝いの言葉さえ言わないつもりだ。そんな言葉を述

べて、二人の関係を現実にひきさげたくないのだ。

青春のはかない夢なら夢でいい。みにくい現実よりはましだ

。しかし、がくんとした気持ちだけは、なかなかとれない。

蔭ながら彼女の幸福を祈ろう。


三月一日


午前十時、大講堂において司令より第一次北浦特攻隊員の指

名あり。小生ももちろんこの選に入れり。今更その覚悟の、

気持ちのと書く要はない。心構えははるか昔にできている。

ただ一日も早くこの日の来たらんことを祈念しつつ、時には

諦め、時には勇んで今日まで過ごしてきたまでだ。司令から

自分の名前を呼ばれた時、ふと瞬間的にではあるが、母の顔

が頭に浮かんですぐ消えた。父母よ、弟妹よ。幸あれかし。


三月十七日


特別訓練員としての飛行作業は、日曜も休みなく、午前も午

後もできる時はいつでもやられる。特別訓練員でない他の学

生は、防空施設強化指揮官として、毎日土方の親分のような

ことをしている。海軍も変われば変わるものだ。

季節も春近し、我々学生の人生の春のみは、まだ遠いのだろ

うか。

敵襲頻々。敵本土上陸の算さえ大なり。東京も全く焼野が原

と化したそうだ。今度編成された第十航空艦隊においては、

使える飛行機は中練などのボロ飛行機を加えて全部で三千機

しかないとか。これにひきかえアメリカでは戦闘機の生産を

中止しているとか。聞けば聞くほど情けなくて、涙さえ出な

い現状だ。一体こんな調子で勝つ見込みがあるのであろうか

。どう考えても心細い。


四月十二日


午前七時、特別攻撃隊員の命名式あり。つづいて午後、その

第一陣は隊員全部の心からなる帽ふれに見送られて勇躍征途

に発つ。俺もむろん特攻隊員である。残念ながら第一陣には

選抜されざりしも、この次には必ず出陣する。

心は明鏡、後顧の憂いは更になけれど、ただ一度父母の顔を

見て征きたい。心ゆくまで話して征きたい。しかしそれさえ

もうかなわぬ。せめて写真でも持っていればよかったのに。

俺は親不孝だった。………休暇、これは学生教程卒業の暁には

必ずあるものと信じて、休暇あれば親にも会えるとばかり思

っていたのが、そもそも誤りではあったが。

進発まで、時日の余裕も少ない。とびとびながら過去一年近

く北浦の学生生活をつづってきたこの日記も、今日を限りに

やめることとする。特攻隊員に命名式されて、体当たりまで

の気持ちなんていうものは、とても筆などにては真を写しき

れるものではない。この心境は、かかる経験を有するものの

みが味わいうるものとして書くことはやめよう。

さらば、父母、弟妹よ、師よ。御健康をお祈りします。



戦艦大和登場


「准士官以上、第一砲塔右舷急げ」

「総員集合五分前」の号令が、戦艦大和の艦内スピーカーを

通して響き渡ったのは昭和二十年四月五日、午後三時過ぎの

ことでした。口径四十六センチの巨砲九門を搭載した、世界

史上最大最強の戦艦として誕生した大和は、しかし世のすう

勢で、本来の威力を発揮することなく、選りすぐりの優秀な

乗組員とともに、大日本帝国陸海軍の沖縄総攻撃で、ついに

轟沈しますが、建造された気魄と英知をたたえた、その姿は

凝縮された日本の文化そのものであり、日本が栄えた記念碑

として、今も多くの日本人の中に脈々と生き続けています。

日英の俊才が語られる、大和の最期に耳をかたむけることは

この上ない興奮であり深い感慨ですが、まず、「戦艦大和の

最後」と題された、元海軍第一期特年兵の井上理二様、昭和

47年株式会社ベストセラーズの「海軍特別少年兵」より。




マリアナ海戦、レイテ沖海戦と手痛い打撃を受けた我が連合

艦隊は、かつての世界に冠とした面影はいまは見るよしもな

く、14隻に痩せさらばえて、生まれ故郷、瀬戸の内海に帰

りついた。昭和19年11月24日のことである。

しかし、この地も傷をいやすところではなかった。明けて、

20年3月18日、母港呉にも敵艦載機の大挙来襲をみた。

今は安住の地さえなく、いたずらに江田島の島影に身を潜め

る我が残余艦は、日々に焦燥をつのらせるばかりであった。




機械の不調により、明日に続けさせて頂きたいと思います。



続きです


4月1日、夜の白けかかる時分、敵攻略軍が沖縄本島に姿を

あらわした。その全貌は、戦艦、空母等の戦闘用艦艇318

隻、附随する舟艇1、139隻、参加兵力実に45万の驚愕

するほどの部隊である。

「全ての可燃物は揚陸する。毛布一枚残してはならぬ」

甲板士官の命令に、思わず私の男のものはずきんと疼いた。

続いて艦長の訓示がある。

「戦局思うにまかせず、最後の突撃を敢行する。報恩の鬼と

ならん、みな心してついてきてくれ」

艦長の声はどことなく悲痛なひびきがあった。生還の期しが

たい突撃行に、部下の身に思いをはせる艦長の心中はどんな

であろうか。もとよりわれわれ兵も、艦と運命をともにする

覚悟はできている。しかし、何故かいまにして、私の胸中に

生の執着と死の恐怖、不安と恍惚にも似た虚無感が交錯した

。最後に連合艦隊司令長官、豊田副武大将の訓示が読みあげ

られた。

私はそっと、隣りの操舵長に尋ねてみる。

「連合艦隊の司令部は、いまどこにあるのですか」

すると、操舵長は、

「俺にもよく分からないが、たぶん、東京か横浜あたりでは

ないのかな!」

という。最後の戦をいどみ、艦隊の壊滅は火を見るより明ら

かなとき、軍令部だの司令部だのがはたして必要であろうか

。長官も参謀も、艦隊の掉尾(とうび)をかざる特攻艦隊に乗

りくみ、伝統と、栄光をかけて隊員と行動を共にすべきでは

ないだろうか。燃料も片道分と聞いている。たとえ満載され

たとしても、菊水特攻艦隊が、沖縄に到達するのはほとんど

不可能である。過去幾多の海戦で、護衛航空兵力を持たない

艦隊が、いかに悲惨なものかいやというほど思い知らされて

いるはずだ。

「酒保開け」の号令がかかる。薬缶酒ではあるが、私も湯呑

一杯の酒をいただくと、けっこう一人前の男になったような

気がして、士気を鼓舞するように、腹がきりきりと鳴った。

ふだんは無口な操舵長も、今宵はよく喋る。

「明朝早く、最後の便がでる。遺髪、遺書は今夜のうちに、

自分のところまで持ってきておけ。それから、みんなに晒(

さらし)を配る。特攻隊の鉢巻きを作るのだ」と言いながら

手拭いの長さに切った晒がわたされた。

「おい白石さん、お前さんの菊水の流れは反対ですぞ!」

操舵長の注意に、わあーっと爆笑の渦が湧く。





続きます。

続きです 


私は、死地に突入、壮烈な戦闘で鮮血に染まるかもしれない

明日のことも忘れ、憧れにも似た特攻隊の白鉢巻きをそっと

締めてみる。

とたん、誰かにこの勇姿を見せたい、子供、子供した気持ち

になり、誇らしい嬉しさがこみ上げてくる。そっと岡兵曹に

目をやる。ときおり筆をとめて、物思いに耽り、どこか遠く

でも眺めるような目つきをしたかと思うと、また筆を運んで

いる。たぶん肉親にあてた最後の便りをしたためているので

あろう。

私に気付いた岡兵曹は

「おい、井上、お前は書かないのか」

と言った。返事のかわりに、ちらっと、その封筒のあて名を

見ると「○○子様」と読めた。女性の名前だが、故郷のお母

さんだろうか、それとも恋人? はっと、私もなにか忘れも

のでもしたような気がする。

しかし私は遺書など書くまい、出すまいと思う。田舎の母が

それを読めば気も動転し、いつまでも悲嘆に明け暮れるであ

ろう。戦死の公報で知れば、気も張りつめていることであり

あきらめも早くつくのではないだろうか。あれこれと、この

時点で、無性に母のことが案じられてくる。

毛布も揚陸してしまった今夜は、全員、着の身着のままで、

そこらあたりにごろ寝していた。酒の酔いもさめ、さきほど

の賑やいだ空気もしらけて人間の業の深さか、眠られぬ長い

長い悶々の時が流れる。ふだんは豪胆ともとれる「忠」上水

も、さすがに今夜は寝られないとみえ、ふっと大きな息をは

いたとみると、背けるように寝返りを打った。

「『忠』よ、もしも君が、無事に帰り、結婚して子供ができ

たら、海軍に入れるか?」

「とんでもない」「忠」は言下にそう答えた。

彼もまた、口にこそ出さないが、不条理な戦い、不毛の特攻

に煩悶していたとみえ、不機嫌に吐き出すと、また黙りこん

でしまった。

6日、午後3時20分、出撃合図の旗が上がった。

日本海軍の象徴ともいうべき超弩級戦艦「大和」それに従う

は第二水雷戦隊旗艦「矢矧(やはぎ)」駆逐艦「礎風」「雪風

」「浜風」「冬月」「涼月」「朝霜」「霞」「初霜」の計10

隻。白鉢巻きの姿も雄々しく、悽愴な雰囲気を漂わせてしず

しずと徳山沖を出航した。






続きます。

やはり「磯風」ですね。


古い本ですので誤植がありましたが万が一昔はそう書いた
のかと思って、そのまま転載しましたが、やはり駆逐艦の

名前は「礎風」ではなく、「磯風」です。ではまた。




続きです


やがて豊後水道にさしかかる、速力も27ノットに上げ一路

沖縄を目指す。夕もやか春霞か、鉛色一色に海も山も溶け込

んだ中を、すべるように進む。わが僚艦の弔容(ちょうよう)

たる姿にはどことなく影薄きさえ感じられ、そぞろものの哀

れをさそう。夕闇が迫るとともに、本州の山すそが、はるか

彼方にその姿を没していく。いよいよ見納めである。祖国よ

永久に栄あれ、大きく見ひらいた瞳がうるみ、なにもかも見

えなくなってしまった。

7日早朝、九州南端を通過した頃、「朝霜」が機関故障を起

こした。雄途むなしく頓挫の朝霜を見ると、憮然たる暗い気

持ちになる。ぼつ念と取り残され洋上に浮かぶ朝霜を見ると

後追いたげに二、三度、身をゆすった。やがて痛恨の涙をた

め陰影を投げかけながら、我々の視界から遠ざかってゆく。

(朝霜はこの後、敵機の攻撃を受けて沈没。326名全員壮烈

なる戦死をとげた)

後部甲板上には機銃員の島崎特年兵が鉄カブト姿も凛々しく

戦闘態勢をとっている。

「おい、島崎」私は声をかけてみた。いつもの人なつっこい

彼の顔も、今日ばかりは、心なしか蒼白で、こわばった表情

である。この特攻に島崎は、どんな気概でのぞんだことであ

ろうか、彼も私と同様、小さな魂で真実を追いもとめ、どの

ような結論を得たか、出撃前にもっともっと話し合ってみる

べきだった。

我が艦隊の頭上には、味方戦闘機が護衛してくれていた。わ

ずか7、8機のものではあるがなんと心強いことか、しかし

この戦闘機も死に装束姿の艦隊を見捨てるかのように何処と

もなく視界から消えてしまった。

それと入れ換るように敵飛行機が2機、我が艦隊のはるか彼

方に現れ、逐一、動静を探っているのが判明する。「大和」

がこの飛行艇めがけて威嚇のため主砲をぶっ放す。

11時20分、ついに戦闘の火ぶたは切っておとされた。



続きます。

続きです


雲の切れ間から20機、30機、いや微塵子(みじんこ)のよ

うな敵艦載機の大編隊が近づいてくる。満を持していた大和

の主砲が咆哮する。それよりもややおそく、「磯風」も射撃

を開始した。閃光とともに起きる轟音はまさに耳を聾さんば

かりである。艦は右に左に大きく傾き、最大戦速30ノット

を出して疾駆する。

至近弾の爆震のために、室内の全照明は点滅し、艦そのもの

が、いまにも破裂するのではないかとさえ思われるほどだ。

彼我のたてる轟音に、まったく通信を絶たれる後部舵取機室

は、手信号に頼るしか手がない。受話器を耳に徳永がハッチ

をあけて上半身を出し、艦橋からの伝令を待っている。はや

る心をじっと押さえ、私は計器の目盛りを凝視し続けている

。不安はその極に達し、戦慄に似たものが一瞬、背筋を走る

。見える敵との戦いがどれだけましであろうか。

「おい、徳永、降りてこい、俺がかわる」

私は、受話器のコードを引っ張った。

さしもの「大和」も、水中からは幾本となく魚雷で突き上げ

られ、天空からは、しのつくような弾雨にさらされ、瞬時、

あの巨体も爆煙に包まれて見えなくなった。ある時は赤く、

あるときは黒く、またあるときは黄色く泡だつ騒乱の坩堝(

るつぼ)となった海面に浮かんで、もう喘ぎの状態であった

。やがて威風あたりを払うかつての勇姿は、見る影もなく、

赤さびた巨大な鉄塊になりいまはただ洋上に浮く。帝国海軍

の終焉を告げる「のろし」に似た黒煙をもうもうと中天高く

ふきあげ、太陽も顔をそむけて、あたりを不気味な「喪」の

色で包む。乗組員ことごとく戦死し、無人の廃船と思われる

大和の高角砲がときたま敵機を呪詛する如く炎を吹く。傷つ

き倒れ、意識もうろうでありながら、それでもなお、最後の

引き金をひく「大和」の乗組員………。「栄光」の重みを呻吟

して漂う「大和」の艦影………。やがて、巨大な怪物が前のめ

りでもするかのように前部から急激にくずれ落ちた。ごうご

うたる潮騒とともに、大渦が巻き起こり、そこだけが空洞と

なって、附近に漂う兵を飲み込む、あまりの衝撃に私の体は

ふるえた。

敵機はすでに雲間に消え去り、先程までのあの騒音、砲声の

いっさいが鳴りをひそめ、寂寞として、海水が我が磯風の甲

板を洗う。

襲いかかる敵機と血みどろの戦いをしていた機銃員は、こと

ごとく倒れ、甲板上は鮮血で赤く染まりその惨状はふた目と

見られぬほどである。横たわる死体のなかに、島崎特年兵の

童顔があった。苦悩のあとさえ見せず、眠るように仰むけに

倒れている。そばには主をはなれた鉄カブトがころがってい

た。「おい、島崎」と呼べば、パッチリと鳩の瞳をひらくよ

うな錯覚におちいる。




続きます。

続きです


あたりはすっかり夜のとばりにつつまれ、我が「磯風」だけ

が悄然と洋上にただよっていた。やがて僚艦の介錯によって

ひと思いに永眠させてやろうと、「雪風」の魚雷が「磯風」

めがけて発射された。しかし、あまり近距離のためか魚雷は

「磯風」の艦底深くつっぱしった。つづいて砲撃が命ぜられ

た。暗黒の中にぱっと火炎が艦を照らす。中部甲板をおどる

ように手を揚げて走る黒い人影をみとめた。気絶していた兵

が砲撃のショックで蘇生したのかも分からない。次の瞬間、

わら人形のように投げ出された。

この悲しい現実をまのあたりにすると、あまりの残酷さに、

目のおき所にとまどった。寸秒ののち、磯風は大爆発をおこ

し、海中に没した。悲憤とともに、たとえようもない寂寥感

におそわれ、大きな鉛の固まりでも飲み込んだかのように重

く沈んだ。

やがて放心から覚醒へと、じょじょに現実にたちもどりまず

最初に尿意をもよおし厠へむかった。赤い血のような小水に

思わず生の実感がわいてくる。

雪風に救助された特攻隊の生き残りは、佐世保軍港の小島、

横ヶ城の隔離病舎に幽閉されることになった。

夕闇せまり、生き残りの兵の心を象徴するかの如く、山桜の

残弁が、足どりも重くのぼる兵の肩に舞い落ちる。昨夜まで

たった一つの大きな目的のため生きてきた戦友が、櫛の歯の

欠けたようなさみしい今宵、過去を思い、帰らぬ友をしのん

でだろうか、いずこからともなく、病舎の隅からは慟哭がお

こった。




以上、検閲の厳しい世相にあって、言いたいことの何割か
とも思われる内容ながら、その慚愧の念は充分に伝わって

まいりますね。さらに、戦艦大和の最後を30年余の歳月
をかけて見事な叙事詩にまとめられた「戦艦大和の運命」

ビルマ戦線では、日本軍と対戦された経歴を持つイギリス
生まれのジャーナリスト、ラッセル・スパー氏の香り高い

労作における最も感動的な一節を左近允尚敏(さこんじょう
なおとし)の訳で、かみしめさせて頂きたいと思います。




今や伊藤(伊藤整一中将、りんご注)が同じく威厳のある諦観

と共に最後を迎える番である。遂行の不可能な命令に従うの

が彼の運命なのだ。彼は命令が思慮もなくあわただしく作ら

れたことを苦々しく思っており、そのことを同僚に示唆した

のだが、目的が崇高であることは否定できない。アメリカ軍

が沖縄を蹂躙しているのに艦隊が何もしないでいるわけには

いかないのだ。日本軍が提供できないような規模の航空支援

なくしては、水上部隊の出撃は成功の望みがない事実は、も

はや重要ではない。絶望的だということが使命に対していっ

そう光輝を添えるのである。その上、神々の同情を引くかも

知れない。敗れると分かっている戦いを喜んで戦うのは、英

国人と同じく日本人が持つ特質である。英国ではクリミア戦

役における軽旅団の突撃のような勇壮な敗北は、輝かしい勝

利よりも高く評価されている。太平洋戦争において日本海軍

から惜しみない賞賛を受けた外国の将官はニミッツでもミッ

チャーでもなく、アメリカ人でさえなかった。それはジャワ

海においてはるかに優勢な日本艦隊をものともせず、無益な

がらも戦って艦旗とともに沈んだ、混成の連合軍艦隊司令官

オランダ人、カレン・ドールマンだった。





続きます。

さらば朝霜


「読む者の鼓動を高める散文である………
それは、語りの巧みさと海軍での経験の混和
そしてあの時代と人々の心理的風潮を明らか
にする稀有の才能によって燦然と輝く」
      フィラデルフィア・インクワイラー

「すばらしい………C・S・フォレスターの古典的
名作『ビスマルクの最後の九日間』に匹敵する
であろう」
      ライブラリ・ジャーナル

「人間の偉大な感受性に関連する勇気とヒロ
イズムの力強い物語であり、その記述は技術
的歴史的に正確、かつ詳細にわたっている」
      ホレーショ・リベロ米海軍大将

「船乗りの記録としては、二度と出ないかも
知れぬ感動の物語だ」
      ニューヨーク・タイムズ


これらの書評に接するだけで、瞼の奥が熱くなりますが、
1987年、新潮社から出航した、紛れもない超一流の、

世界に冠たる美しい戦艦が語る、「朝霜」の最後の反撃。




まず戦闘機が半トン爆弾をもって攻撃した。朝霜は三本脚の

前部と三基の主砲塔のために軽巡のように見えた。海面をゆ

っくりと這うようにして進んでいる同艦は、おそらく絶望的

な状態であったろうが、砲員は猛烈な防御砲火を打ち上げた

。攻撃者たちがのちに報告したところでは後部の一人の砲員

がとりわけ厄介だった。艦の周囲には炸裂する爆弾の輪がで

きたが、だれも命中弾は得られなかった。戦闘機は甲板の高

さまで降下し、機銃弾を極力多数発射できるよう尾翼を左右

に振りながら、砲員に機銃掃射を浴びせたのち艦を横切った

。朝霜はなお反撃を続け、ヘルキャット一機の左翼に大きな

穴を開けた。

さらに二、三機が攻撃して甲板が燃え始め、砲は沈黙した。

爆弾は命中しなかったかも知れないが、激しく船体を振動さ

せた。外鈑の一部はつぶれたにちがいない。東シナ海上に油

条をひき、その幅が広がりつつあるからだった。

とどめを刺すべく雷撃機隊が右舷から240ノットで轟音を

上げながら殺到した。アベンジャー八機はほとんど同時に、

敵艦が回避できないように扇形に魚雷を投下した。一本は魚

雷倉から転がり落ちて沈んでしまったが、そのほかの魚雷は

高度約三〇〇フィート、距離一二〇〇ないし一六〇〇ヤード

で投下され、教科書どおりの形で海面に落ちた。魚雷はこの

短い距離をすこぶる順調に………正常に………航走した。ゆっく

りと動いていた駆逐艦は魚雷の航跡と同じ線に艦を向けてか

わすことにかすかな望みをかけ、右に舵をとった。恐るべき

魚雷を二本はかわし、さらに数本は後方を通過した。しかし

二本が艦橋下と機械室の近くに命中、爆発によって艦首が高

くもち上がった。艦尾は水につかったが切断されたように見

えた。艦首はゆっくりとあとずさりして海面下に没し、水中

での爆発で再び海面にとび出した。次いでばらばらになった

らしい。数秒後に残ったのは油条、ごちゃごちゃになった、

さまざまな破片、それと一握りの生存者だった。

朝霜は三分たらずで破壊されたのである。








ヨーロッパといえば


イギリスのみならず、ここに、フランス人従軍記者による
りんご直立不動で最敬礼の記述があります。明治二十八年

二月二十二日付報知新聞に掲載されたフランスのフィガロ
紙記者カレスコー氏とイリュストラシオン紙記者ラロー氏

両名の従軍記です。


「大日本帝国軍隊が世界に対して誇るに足る名誉を有する」

ことを観察し、報道することを愉快に思う、と先ず書き出し

ている。そして日本軍の栄城湾(山東半島)上陸が「毫末の

乱れることなくして」整然と行われたことに感心した、と

述べた後、上陸した村外れの某家に「産婦あり。入るべから

ず」との掲示が出ているのを発見して「予想もしなかったこ

と」であると賛嘆している。

この他、我が軍の敵に対する慈愛の実例をいくつか挙げた後

「余等は日本帝国の如き慈愛心に富める民あるを、この広大

なる地球上に発見し得るかを怪しむなり」とまで称賛し、続

いて中国軍についてはこう書く。

「ひるがえって清軍を見よ。日本軍卒の一度彼等の手に落ち

るや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるにあらず

や。(中略)しかして日本はこれあるにかかわらず、暴に酬い

るに徳をもってす。さすがに東洋君子国たるにはじずと言う

べし」と………。


高名なロングセラーにして、中村粲(あきら)氏の代表作、
「大東亜戦争への道」平成二年展転社版からの抜粋でした。

そして、この脅威のイギリス人ジャーナリスト、スパー氏
が、「戦艦大和の運命」序文で、楽しそうに映画について

語られる、大好きな項を再録させて頂きたいと思います。



占領時代の終結によって、日本は検閲なしで自由に映画を作

れるようになったが、その多くは当然のことながら太平洋戦

争を扱ったものだった。私はシンガポールを征服した山下奉

文「虎」将軍や、パールハーバー攻撃の背後の指導者でアメ

リカとの戦争を渋った偉大な山本五十六大将の生涯について

のドラマを見た。全編これ大和だけのために作られた映画も

あった。沖縄沖のアメリカ艦隊に向かう大和の英雄的、かつ

絶望的な出撃は、すでに日本の伝説の一部になっていたので

ある。大和の映画を観たとき通訳してくれたのは福中重三氏

で、のち日本の新聞の特派員となった。この本は多くの日本

人の助力と指導のお蔭でできたが、彼はその中の最初の一人

だった。

私は幸い記憶力に恵まれている。今でも大和の映画の全部の

シーンを思い出すことができる。その中には、最後は給弾中

に甲板に倒れる機銃員の活躍のシーンもあった。私は二十三

年後に、大和生存者のグループに得意になってそのシーンを

説明した。映画でその人物を演じたのは実際に機銃員だった

小林昌信氏であり、映画に少々リアリズムをもたせるために

俳優を志願したのだった。

残念ながら1950年代の私には、この本に専念する時間が

なかった。アジアや世界中でニュースを追いかけるのに忙し

かったからだ。私のノートは遍歴の旅の他の記念品と一緒に

戦時中のインド土産である黒塗りの古いブリキのトランクに

しまってあった。昔の記憶がよみがえったのは、70年代の

半ばに日本を再訪し始めてからだった。私はファー・イース

タン・エコノミック・レビュー誌に防衛問題を書いていたが

海軍のすぐれた歴史家である関野英夫海軍中佐を訪ねたとき

事務所の壁にかけてある大和の写真に気付いた。彼は巨大戦

艦のことを耳にしていたガイジンに会って驚いたが、私がと

ことんまで研究を進めてこの本で結実することができたのは

彼の好意に満ちた激励があったからだ。私は彼の忍耐強さ、

同情心、そして常に変わらぬ好意に敬意を表したい。

彼こそは真のサムライである。





 


大和轟沈の前に


意味不明の映画館りんご座の、さらに存在意義絶無の館主
りんごが訳の分からん上映リストで、実に心で観たかった

憧れの戦争映画。りんごの、創作上の理想とする「言外の
情趣」ここにきわまれり。日本映画界にその名を刻印する

抒情派の巨匠、木下恵介監督がメガホンを筆に持ちかえた
1987年主婦の友社発行の「戦場の固き約束」は未発表

シナリオ集ながら、同書の監督若き日の心象風景ともいう
べき随筆「夕焼雲」中、「蛍」こそ、最も美しい反戦映画

と信じ、抜粋にて共有させて頂くことをご寛容ください。




蛍 ほたる
小さい丸いかごの中で
昨日と今日と
明日は消えるか
またたく光
みどりの光
ああか弱くも

蛍 ほたる
ゆれるかごの向こうの空で
昔も今も
未来も果てなく
星は輝く
広い宇宙に
ああ お前は小さい

蛍 ほたる
何処の草の露から生まれ
明日は消えても
いのちの光
すべてを燃えて
ああ 露にかえれよ


この十八歳の時のノートの、自分の幼さがふと追憶への郷愁

を誘ってその清澄な感傷のしじまの中に明滅する一匹の蛍。

僕が永遠に愛し、終生その悲しみを悲しみつづけるであろう

あの夜の蛍よ、僕はいま初めてありのままを語りたいと思う



僕が松雄さんを知ったのは変な縁からであった。(中略)

友達の一人に土肥さんというバーで知り合った飲み友達があ

って、或る夜その人が知人の息子さんを連れて来た。(中略)

昭和十三年の、僕が二十五、正市さんは二つ下であった。

「弟もぜひ遊びに来たいと言うのですけれど、連れて来ても

いいですか」と、或る夜、正市さんが言った。ずいぶん背ば

かり高いくせに、少年みたいな淳朴な感じがして、その頃は

もう僕のことを、「お兄さん」「お兄さん」と親身のように

呼び始めていたのである。

後で思うとその弟が大変な自慢であったので、僕に合わせた

くて仕方がなかったのである。

「僕はこんな人間で駄目だけど、弟は全然僕なんかと違うん

だから」

と会う前にも会ってからも口癖のように言い事実、松雄さん

は兄貴が自慢してもいいほどの、兄貴よりも洗練された、し

かしまだ高輪商業を出たばかりの、非常に清潔な美少年であ

った。やはりお父さんの家業が嫌いで東京のタイプライター

の会社にその春から勤めているとのことであった。

正市さんの歌さえ馬鹿にしているような顔をして、「兄貴は

」「兄貴は」と軽蔑するのであったが、正市さんはそれが一

いち嬉しくてたまらない風で、自分を馬鹿にする弟をむしろ

僕に誇るかのように見えた。それほど仲のいい兄弟である。

二人とも僕を「お兄さん」と甘えて呼んだ。そして、その、

甘えて呼んだ「お兄さん」という呼び名こそこの二人の兄弟

の、心の中の永劫の悲しい声となったのである。





続きます。



続きです


松雄さんは昭和十五年の六月一日、横須賀の海兵団に入って

しまった。なんでも正市さんの話によると、お父さんが否応

なしに志願させたのだということであった。威勢のいい商売

柄、威勢のいいことがお好きだったのであろう。お父さんの

太った体が勇ましく誇らかであったろうと想像される。

しかし、松雄さんは………、松雄さんは僕の妹にほのかな夢を

抱いていたのである。僕達兄妹の一番末っ子で、名は芳子と

いい、当時はまだ浜松の女学生であったが、休暇の時など母

と一緒に上京してくるのが例であった。そうしたときからも

母も松雄さん兄弟が大好きになり、両家の母同志が訪ね合っ

たりするほどになっていた。そしてその親密さのうちに松雄

さんの楽しい夢が日一日とふくらんでいったのであろう。

しかし僕の蒲田の家は僕の友達や友達の知り合いやほとんど

毎日のように若いひとたちが、歌い、ピアノを弾き、時間が

足りなければ泊まっていくといった風で、殊に松雄さんの気

持ばかりが目立ちもしなかったし、松雄さんも謙虚な、気持

の良い友達としてしかその態度を見せはしなかった。僕がも

しかしたらと思ったのは、入団したその前の年の春、多分三

月の、芳子の学校休みの時であったろうと思う。松雄さんが

たった一人で浜松の僕の家に遊びに来たときであった。今の

数え方で松雄さんが十九、芳子が十六才の時である。遠州灘

を一望に見る白い砂丘に、芳子達と嬉しげに遊ぶ姿や、母達

と天竜川に遊んだときの姿など、いまもその時の写真が十枚

ほどあり、その一枚は僕の枕許の竪額の中に入っている。

(中略)松雄さんが入団した年の十一月には僕が召集になり、

その同じ十一月には楠田浩之が解除になって帰ってきた。

漢口の時計塔の音に遙かに別れた僕と浩之が、今度は時を同

じくして会うこともなく征く身と還る身を逆にするなど全く

いたずらな運命である。

だが運命の不思議な仕業はまだまだ際限がない。その浩之、

芳子の心が結ばれ始めたのは、僕が兵隊から解放されて東京

に帰ってきてからの或る秋の日、浩之が漢口で別れたときの

礼を言いに来たその日からであった。芳子は浜松の女学校を

卒業し、浩之の家も神田を引き払って、同じ蒲田の東六郷に

あった祖母の隠居所に移って来ていたので、自然会う機会も

多く、日と共に二人の交際は深くなっていったのである。

そんな頃、一方、松雄さんの方は厳しい海軍の訓練に追われ

て、とかく音信も途絶えがちであったが、聞けば、「もし、

お嫁さんを貰うんなら芳子さんみたいな人がいいなぁ」と、

その淡い真面目な心を家人にもらしたのもその頃であった。

しかし、当時の僕はそんな周囲のことには構っていられなか

った。ただ仕事にだけ突進していた。

昭和十八年の春早々、僕はいよいよ監督をすることになった

。「第一回目は手馴れたキャメラマンと組んだ方がよくはな

いか」と城戸所長が心配してくれたが、僕は楠田浩之を選ん

だ。八年前小原譲治氏が「今日からうちの組に入った楠田で

す、どうかよろしく」と挨拶廻りにつれて廻っていたあの日

を想い、十年間を苦労してきた自分を想い、その同じ苦労を

なめて来た浩之の門も、共に押し開いて進むことこそ生涯の

意地だと確信した。

「新人木下恵介監督は、溶暗明を排し、シャッキリした構成

とそのみずみずしい感覚で先ず前途有望といえるし、楠田浩

之の撮影も地方色をよく出している」

というのが朝日新聞の「花咲く港」評の、嬉しい最後の結び

の言葉であった。城戸さんもその時はすでに撮影所の人では

なかったが、わざわざ本社に二人を呼んで、祝福してくれた

。ちょうどその頃の或る夜正市さんが久しぶりに訪ねて来た

。正市さんは南方で輸送船が撃沈され、二日とか海面に流れ

ていて九死に一生を得たのである。そのとき長時間水にひた

っていたために腰のひどい神経痛とかで、もう杖をつかねば

歩けない人となっていた。

「お兄さんに折り入ってお願いがあるのですけれど、聞いて

いただけるでしょうか?」

僕はすぐはっと胸に来るものがあったし、瞬間浩之と芳子の

ことが頭にひらめいていた。

「松雄もいよいよ任官して、近く船に乗って出ていくらしい

のですけれど、その前に、もし彼奴が無事に凱旋してきたら

芳子さんに来ていただきたいのですけれど………、その約束を

してやってくださいませんか」

僕はきっと冷たい顔をしていただろうと思う。

「そういうことは僕が決められることではないし、芳子の気

持次第なんだから………」




続きます。

続きです


松雄さん、僕は君のお父さんが、君が還って来たときのため

にと新しく君の家をお建てになったことも、正市さんから聞

いて知っていました。正市さんもまた、僕がその切なる願い

を聞いてくれるものと思っていたであろうことも知っていま

した。おそらく君のお父さんもお母さんも、君の未来の花嫁

は僕の妹と決めていられたでしょうに………、しかし、君を知

っていた頃の芳子はまだ子供過ぎたし、君もまた、言葉もか

けず手紙も残さず男らしく海へ行ってしまったのです。

そしていま白状するならば、僕は浩之と芳子の恋愛を実らし

てやりたいと望んでました。

初夏の午後の四、五千坪もあろうかと思われた「三島の原」

の、その半分以上は小学校と中学校に変わり、そこから聞こ

えてくるざわめきが微風に乗って、兄と兄とが向かい合った

空間に騒いでいた。

「では松雄が無事で帰って来ましたら、そのときはまた、改

めてお兄さんにお願いに上がります」

そう言った正市さんにも昔の若々しい元気さはなく、杖をつ

いて帰って行く姿が、弟思いの兄だけに、たまらなく気の毒

でやりきれなかった。

第二回演出の「生きている孫六」を終わったのはその年の秋

の終わりで、浩之から「恵ちゃんにちょっと話があるんだけ

ど………」と切り出されたのは、もう冬に入った冷たい夜のこ

とであった。行きつけのとんカツ屋で向かい合って、浩之は

妙に堅くなったような照れ臭いような顔をしていた。

「君がいまに言い出すだろうと待っていたんだ」

僕はそう言った。その直後とも言える十二月の四日、僕の、

誕生日の前日である。

「海軍二等兵曹山中松雄殿 昭和十八年十二月四日午前八時

三十分 本州南方東方海面に於いて激戦奮闘中壮烈なる戦死

をとぐとの報………」





続きます。
 

続きです


この公報が松雄さんのお宅に届けられたのは翌十九年の三月

十七日その僅かに六日前、三月十一日の佳き日、浩之と芳子

は楠田家の両親の結婚記念日を選んで、そのめでたい華燭の

式を挙げたのであった。しかしそれからちょうど一ヶ月、芳

子は浩之の二回目の召集令状を持って、急ぎ撮影所まで駆け

つけねばならなかった。それは僕達の第三回目作品「歓呼の

街」の桜咲く大オープンセットの撮影中の時であった。

同年六月の二十八日、故海軍一等兵曹山中松雄君の盛大なる

公葬が行われた。その幾日か前、僕は家族ばかりのしめやか

な供養の席に呼ばれたことがあった。蛍はその夜のことであ

る。

僕が松雄さんに会った最後は、浩之から言い出されるよりも

少し前、松雄さんが運命を共にした特設航空母艦「沖鷹」に

乗って南方に出撃するため、そのお別れの気持ちであったの

か、ひょっこり訪ねて来てくれた時であった。椰子の実と土

人の細工である木彫の鰐をくれた。僕はいつまた会えるかも

わからない感傷にせき立てられ、楽しく過ごそうとあせる心

が横浜の南京街に飛んで、その裏にある白系ロシア人のバー

を三、四軒飲み歩いた。

「僕も横須賀まで行くよ、君の下宿に泊めてくれるかい?」

「時間外に地方人と歩いているとうるさいから、一人で帰り

ます」

僕達は終電車を気にしながら日ノ出町の駅まで人力車を走ら

せた。酔った頬には冷たく清らかなその夜の空気であった。

よくもよくも立派になった松雄さんの姿であった。白い手袋

と粋な短剣が洒落ていて、美少年はいまや立派な美丈夫とな

ったのである。日ノ出町のホームに「花咲く港」の再映の、

ポスターが貼ってあったので、「お兄さんの映画、一度見た

いんだけどなぁ」と、その八重歯を見せて美しく微笑した。

僕は思わず純白の手袋の上から握手をした。松雄さんと握手

をしたのはその時がただ一度である。去って行く電車の最後

尾の、その硝子越しに松雄さんはじっと僕を見た笑顔だった







続きます。


続きです


「僕なんかよりもお兄さんの方が大好きだったから、松雄は

誰が来てくれるよりも一番喜ぶでしょう」

正市さんはそう言ってはお母さんに叱られ叱られ泣いていた

。やがて僕が膝を上げたとき、それはもう十二時に近く正市

さんに戸口まで送られて外に出ると

「あ………松雄さんだ」

僕はそう思ってその蛍を見た。おそらく正市さんも何か神秘

なものをごく普通に受け取ったのであろう。季節にはまだ少

し早く、まして今年初めて見る蛍である。それを「あ、蛍」

ともなんとも口に出さないで、ただ「さようなら」と互いに

言って別れたのは、互いに何かを一人だけで思ったからであ

った。

蛍は七、八間先の、僕が足を向ける方向に、ただ一カ所に、

旋回していた。たった一匹であった。僕は一歩一歩その先を

見詰めながら歩く速度も普通のまま、すっと手を差し出した

。蛍もその手を待っていたかのように指の先にとまった。

愛らしい緑の光が僕の指先に映った。いじらしくていじらし

くて、会いに来てくれた松雄さんの心根がたまらなく可愛い

かった。

「どうしたんです」

戸口に立っていた正市さんがとんで来た。蛍はすっと指から

離れた。

「僕の指にとまったんだよ」

「松雄が会いに来たんだ、お兄さんに会いに来たんですよ」

正市さんの嬉しそうな眼も、その明滅する小さい光に弟の魂

を求めていた。



正市さんは現在蒲田の東口で亡くなったお父さんの後を兄さ

さんとは別々に継ぎ、建築業をして、お母さん、奥さん、子

供さんと幸福に暮らしておられる。ごくたまに訪ねて行くと

「お兄さん良く来てくれました。松雄が喜びます」と大変な

騒ぎで或る時僕に見せてくれたのであるが、松雄さんが最後

に帰って来た時、「これだけは僕が帰るまでは絶対に開けな

いように」と言い残して置いて行った釘づけの箱があった。

開けてみるとその中にあったのは一冊のアルバムだけで、そ

の第一ページに貼ってあったのは妹芳子の写真であった。

それ以外のページも無用な人の写真は全部はがしてしまった

らしく、ただ僕の家族と学生時代の親友の写真だけがあった

。正市さんは今でも言うのである。

「とにかくお兄さんのことは親戚だと思っているんです。な

にしろ松雄はお兄さんの弟ですからね」



わが心をはじらって、その清純な初恋の真心を釘づけにして

逝ってしまった人の、その在りし日のはじらいを、僕はいま

真実弟と思えばこそ、これを書くことを許されると思う。



蛍よ、露にかえることなかれ。





いやぁ………さすがは木下監督1951年の映画「海の花火」
1959年の、日本メジャー作品初のラヴェンダー映画か

と物議をかもした「惜春鳥」などと、なんら遜色のないと
いうより、実にそれ以上の映画を観せていただきました。

美形のおとうと君が本当に愛していたのは果たしてどなた
だったのでしょう。永遠に答えの出ない問いかけにりんご

は一人で陶酔しております。いえ、まぁいつものことなん
ですがね、しっかし、監督ともあろうお方がナンで横須賀

まで追っかけて行かなかったんでしょうか、ここは世紀の
傑作恋愛映画「哀愁」のロバート・テイラーの根性をみな

らって欲しかったところですね(笑)しかし酩酊さめやらず
ながら、お付き合いありがとうございました。ではまた。






プロフィール

星月一人

Author:星月一人
戦争の20世紀も過ぎ人類の
自己表現が自由な時代に感謝
でも本音は私を最高の戦友と
呼んで下さる方を探してます
皆様の弥栄を願う日の丸写真

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